金打(北山町)

西大鐘の西部、北の丘陵の南斜面を「金打」と呼ぶ。

安岡親毅の勢陽五鈴遺響によると、続日本紀養老6年(722)のくだりに、伊勢国金作部牟良忍漢人安得とあって、当時諸国に金作部が置かれたとある。平安時代中期、源順が撰んだ『和名類聚抄』に、朝明郡(阿佐介)大金郷(於保伽)がみられる。

『勢陽五鈴遣響』は「本州ハ此地二所置ナリ」と大鐘の地に伊勢国の金作部が置かれたことを記し、また、『勢陽雑記』には、大金は大鐘と同訓であって、於保伽 と読むとある。

黒沢翁満の北勢古志には、東大鐘(大鐘町)、萱生、平津、中村と、これに西大鐘、北山、中里(朝明町)、山城にわたる下野荘を大金郷の範囲としている。

大金郷と称する処は鍛工金作部の所居するところで伊勢国の金作部はこの地に置かれたとあり、このことから、大金の地名が名付けられた。

金打に隣接する字南林の標高50mの山中には、多度大社から勧請した一目連神社が、大正2年(1913)太神社に合祀されるまで安置されていた。その祭神天目一箇神
は「作金者」の神とされていることからもその縁がうかがわれる。

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