西徳寺(さいとくじ)跡(大鐘町)

大鏡山西徳寺は、平安時代初期(9~10世紀)に建立され、東大鐘村(大鐘町)から西大鐘村(西大鐘町)にかけて、七堂伽藍を擁していた天台宗の大刹(大きなお寺)で、太神社の別当寺(神仏習合思想に基づき神社とともに置かれた寺)であったと伝えられている。

延喜式内社の太神社とともに西徳寺があったということは、当時この地は北勢地方
の中心的な土地であったと想像できる。

西徳寺は、南北朝の戦乱に巻き込まれ、南朝正平24年(1369) 9月、兵火により焼失したと伝えられている。

すぐに再建されたようだが、約100年後の応仁年間(1467~69)に、本願寺の第8代蓮如上人がこの地を訪れたとき、西徳寺の僧侶や農民など多くの人々がお念仏の教えに触れ、西徳寺を中心とした地域全体が浄土真宗に改宗している。

蓮如上人からいただいた名号は、現在も浄圓(円)寺に伝えられている。

その後、永禄11年(1568)織田信長の北伊勢侵攻のおり、西徳寺も焼き討ちに遭い焼失したと伝えられている。

この時、僧侶たちは、兵火による経典焼失をふせぐために西大鐘へ約1㎞の大鐘坂を登り詰めたところに大般若経を埋め隠したと伝えられ、現在、その地を「経塚公園」といって、四日市市の文化財(記念物・史跡)に指定されている。

西徳寺焼失後、地域の人たちは教えを聴く場所として道場を建立したが、江戸時代初期に門徒代表として釋空浄を選び、道場を正式に寺院化し、「大鏡山浄圓寺」と改称し、今日に及んでいる。なお、大鐘町及び西大鐘町には、大門・寺田・堂々ケ谷・経塚などの小字名が今に伝えられている。

西徳寺有縁の小字名

 

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