地蔵盆・和合地蔵尊法要

8月22日(日)北山町経塚公園において和合地蔵尊奉納法要を行いました。

コロナ禍の中コロナの収束を願い、朝10時より自治会役員が集合し、準備を行い11時より安乗寺住職様に法要をして頂きました。

 

北山町石造地蔵尊(和合地蔵尊)

北山町には、安政5年(1858年)天災飢饉、疫病などを恐れ、庄屋・寺院の協力を得て、忍藩主松平下総守にお願いして地蔵尊を築造しました。

村人たちは、八風山中から大御影石を運び出し1年がかりでこの地蔵尊が刻まれました。

別名和合尊とも呼び、毎年8月には地蔵祭り(子ども角力)が催されています。

一説には、『あかかくし地蔵』といって、庄屋たちが忍藩から負けてもらった年貢を取り込み、それを隠すために建てたとも言われています

『下野地区史跡委員会立て札より』

忍藩

のぼうの城の映画で有名になった忍藩が北山町を納めていました。

忍藩がおさめていた経緯は以下の通りです。

1823(文政6)年、桑名藩奥平松平氏は、武蔵国忍(おし)(現埼玉県行田市)への転封を命じられた。それに伴って、支配領地の多くは忍城を中心とした領域に移ったが、員弁郡・朝明郡・三重郡の一部地域3万7千石はそのまま残され、忍藩の飛地となった。さらに、30年には、越後国の村々との交換で伊勢国の忍藩領が7千石増えた。そして、4243(天保1314)年の幕府の改革、いわゆる天保改革によって伊勢国の忍藩飛地は幕府領となって、いったん消滅する。再び伊勢国の一部が忍藩領となるのは47(弘化4)年のことで、この時には三重郡八王子村(現四日市市)など7か村が忍藩領となった。その後、54(嘉永7)年には30年時点で忍藩領となっていた村々約70か村が忍藩領となり、それから1871(明治4)年の廃藩置県まで継続する。陣屋は大矢知村にあった。『三重県::県史編さん班HPより抜粋』

自治会役員の準備の模様

  

法要の模様

安乗寺住職による法要の模様、暑い中マスク着用の読経ありがとうございました。

来年の子供角力を待つ土俵

来年コロナが収まり、子供角力が開催されるの待つ土俵、来年の子供たちの歓声を静かに待っています。

 

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