鐘撞(かねつき)遺跡(大鐘町)

「鐘撞」という字名は、延喜式内社太神社の別当寺であった天台宗西徳寺の鐘撞堂が建っていたことに由来すると伝えられている。
また一説には、その釣鐘が非常に大きかったため「大鐘」という地名になったともいわれている。

字鐘撞の地で耕作を営む農家では、ずいぶん前から、たびたび古い陶器片を見かけていたようである。

昭和59年(1984)に四日市市教育委員会が行った「遺跡詳細分布調査」の際にも調査対象となっているが、四日市市が平成5年(1993) 3月に刊行した『四日市市史第三巻資料編考古Ⅱ』の編集にあたって、さらにくわしい調査が行われ、その全貌が明らかとなった。

遺跡の範囲も従来より拡がり、採取遺物も打製石鏃・弥生式土器・土師器・須恵器・灰釉陶器・山茶碗・山皿・常滑系陶器・美濃系陶器と多種にわたり、従来は古墳時代の遺跡と考えられていたが、弥生時代後期・飛鳥時代・平安時代から室町時代に及ぶことも判明した。

これらの採集遺物には、寺院とのかかわりを示すものはないが、火災にあったと思われる美濃瀬戸系陶器があることは、何らかのかかわりがあるのかもしれない。

また西方には西 遺跡があり、弥生時代後期から室町時代まで断続する集落遺跡で、最も繁栄した時期には、仏堂風の瓦葺建物があったと推定され、この2つの遺跡は、隣接し集落として大きな広がりを持っていたとも考えられている。

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