八ケ村座敷跡(西大鐘町)

江戸時代、村の政治は代官の指揮で庄屋が行っていた。庄屋の補佐役として組頭・百姓代が置かれ、これを村方3役と呼んでいた。組頭は農家5軒(5人組)をまとめ、百姓代は村民代表で庄屋・組頭の目付役として、年貢の割当などに立ち会う役目を持っていた。

また庄屋の補佐役には、その他に肝煎も置かれた。

庄屋には、郷ごとに大庄屋が置かれ郷内の庄屋を統率していた。この地では、西大鐘の伊藤弥左衛門が、大鐘郷(東大鐘(大鐘町)、萱生、中村、西大鐘、北山、中里(朝明町)、山城、札場新田(札場町))八ケ村の大庄屋であった。

因みに、中里村の藤谷家は中里村の庄屋であった。

ここ伊藤家の裏庭には、八ケ村座敷といわれる別棟の建物があって、庄屋の寄り合いの場とされていたという。

当座敷は、伊藤弥左衛門の屋敷(伊藤裕氏宅)の裏山西方約100メートルの所にあったと伝えられ、そこは藤波政孝氏旧宅の裏山に当たり、現在も伊藤家所有の約100坪ほどの突き出した平地があって現在は竹林になっている。

またここには、当時の土台石や靴脱ぎ石と思われる石が残されている。

おすすめの記事