朝明川中流左岸の段丘下位面で、西大鐘の集落を含む東側一帯に広がる。標高25~27mほどで、水田・畑地・宅地・墓地となっている。
北側台地斜面には北ノ山古窯跡がある。
遺物は東西350m、南北200mほどに広がり密度は高い。中野山・北山A~C・鐘撞遺跡と共に、『和名類聚
抄』に記載されている朝明郡大金郷を構成する集落の1つと考えられている。
採集遺物には、須恵器が最も多く、山茶碗は極く少量である。また、布目瓦片は墓地南側の畑地に最も多く分布している。
石鏃は、薄手の平基無茎式のものである。剥片は少量である。磨製石斧片は、緑色岩系のもので胴部の小片である。
弥生式土器は、後期に属する壷ないし甕の小片が認められる。土師器には、古墳時代初頭から中世に及ぶものがある。
須恵器には、坏・碗・皿・蓋・壷・甕・瓶がみられる。
古墳時代後期から平安時代前期頃に属するものであろう。
以上のことから、当遺跡は弥生時代後期頃から室町時代頃まで断続する集落遺跡と考えられ、最も繁栄した時期は奈良時代から平安時代にかけてで、集落内には仏堂風の瓦葺建物が建てられていたことが考えられる。
古代大金郷の中心集落であったといえよう。
また、朝明郡の郡衙跡の可能性も考えられる。