半学舎(はんがくしゃ)跡(大鐘町)

「半学舎」とは、「教えることの半分は、自ら学ぶことである」という大賀賢励(1819~1906)の教育者としての信念に基づき、明治10年(1877)に官許を得て、東大鐘村(大鐘町)浄圓(円)寺境内に開設された私塾である。

賢励は、弘化3年(1846)から漢学を中心に郷里の子弟の教育にあたっていたが、その学識・思想・人徳を慕って、教えを乞う者は月日を迫って増加したため、学習場を増築することとした。

賢励は、その師広瀬淡窓の私塾「咸宜園」にならって、浄圓寺境内を「綴英園」、増築した私塾を「半学舎」と名付け、質実剛健な英才教育を目指した。

半学舎の建物配置は、その中心をなすものは、西楼であった。間口5間半(9.9m)奥行2間半(4.5m)2階建、瓦葺、延27.5坪であった。建築当時は、周辺の民家のほとんどは藁葺屋根であり、それだけに人目をひくものがあった。

学習室はすべて畳敷で、1・2階ともに10畳12畳の2室であった。

「南楼」は賢励の住宅にあてられ、「南楼」と鐘楼との間に「炊事場」があり、鐘楼の北側に「東楼」があった。

「東楼」は塾生たちの寄宿舎であった。

浄圓寺の本堂は、半学舎の建物ではなかったが、通学塾生の学習場にあてられていた。

幕末、明治維新、日清・日露戦争と激動の世にあって、この地に学問の火を燃やしつづけた大賀賢励は、明治39年(1906) 1月24日、病を得て亡くなった。

その後間もなく、門人も去り、「半学舎」の建物も各地に分散した。

そして、西大鐘町の故森喜久男宅の納屋として使われていたかつての「西楼」も平成2年(1990) 4月16日、ついに姿を消した。

半学舎跡(現浄円寺境内)

半学舎西楼(西大鐘森喜久男氏宅に建つ)

 

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