村役の野呂忠右衛門は度量の大きい人で、百姓たちが夫役や災害に苦しんだあげく逃げ出した田畑を、一手に引き受けて耕作していた。
世は慶応年間(1865~1868)の世直し一揆が盛んだった頃で、忠右衛門は相次ぐ災害と重税を理由に、年貢を納めると後はほしか(干した小魚を粉にした肥料)代も払えぬと、代官所に年貢の免除を願い出ると共に、他村へも回状を送って協力を呼び掛けていた。
藤堂藩や桑名藩では、百姓の申入れに応じたという話が聞かれても、忍藩からは何の沙汰も得られなかった。
おりしも、志知と西大鐘の村境で、員弁・朝明両郡の郡境を設定することとなった。
村人が境界に出て溝を掘り、その中へ枯れ草や木を投げ入れてこれを焼き、炭にして境界線を敷く作業をしていたところ、既に忠右衛門の回状をみていた近隣各村の農民は、この煙を見て一揆の狼煙と早合点して、遠くは四郷村あたりから竹槍などをかついで集まり大騒ぎとなった。
この騒動を知った代官所は、忠右衛門を首謀者として牢に投じ、打ち首にすることとした。
ところが、これを「殿様の財産についての私事に関する願事ゆえ罪にならない」ということにとどめて、懲役で済ませることとなった。
さらに明治維新を迎えて罪は免ぜられ、漸く解き放された。
なお、このとき年貢免除の願い状を書いた清作(西大鐘村)も、一旦牢に入れられたが、間もなく釈放されたという。忠右衛門の死後、村人・親類縁者は彼の功労を偲び、西大鐘の東方新濃州街道(現
県道員弁四日市線)沿いに墓碑を建て今に残した。