北山町北部の台地上にあって、平成22年(2010)度から5年間、新名神自動車道・東海環状自動車道の建設に伴う発掘調査が行われ、縄文時代から奈良時代に及ぶ遺構や遺物が出土し、この地が長年にわたり利用されていることが分かった。
縄文時代早期(約1万年前)のものとしては、煙道付炉穴174基と集石炉29基が発掘され、さらに炉穴からは刻みを入れた枝を転がして文様を付けたと思われる押型文土器も見つかった。
煙道付炉穴は、どんぐりなどの食料を長持ちさせるため、いぶす燻製用の穴と考えられ、細長い形が特徴である。
また、集石炉は底の土と石が焼けて変色しており、食料を石の上において蒸し焼きにしていたと考えられる。
縄文時代晩期(3000年前)の竪穴住居からは土器が、周辺の同時期の土坑からは石匙・石鏃が見つかった
西日本に多く分布する突帯文土器と東日本に多く分布する浮線文土器の両方が出土しており、当時もこの地が東西文化の接点であったことを感じさせる。
弥生時代(2500~1800年前)の竪穴住居や土坑も発掘された。飛鳥~奈良時代(1400~1300年前)の建物跡として竪穴住居が88棟、掘立柱建物が103棟と丘全体に広がる集落跡が見つかった。
遺物では、土師器といわれる素焼きの土器に加えて、鍛冶を行った際に出る鉄滓、鍜治に関連する道具の羽口・砥石が出土している。
このように中野山遺跡と鍛冶との関連は、古代「大金郷」とのつながりがあったことを示している。
さらに遺跡の南斜面において石造五輪塔が数多く出土している。五輪塔の造立は平安時代後期に始まり、南北朝から室町時代に全国各地で行われたが、この地の五輪塔がいつ頃、誰のために作られたのかは不明である。
※写真は三重県埋蔵文化財センター提供