太(おおの)神社碑(西大鐘町)

この碑に刻まれた「延喜式内太神社」は、東大鐘(大鐘町)と西大鐘両村の村社として、大正5年(1916) 2月に石部神社に合祀されるまで東大鐘村字大坪に鎮座していた。

平安時代に編纂された「延喜式」の朝明郡24座の中に見える古社で、その祭神は神武天皇の御子で太朝臣の祖神・神八井耳命であった。

この神社のことを諏訪大明神といったのも、この神が信濃国造の祖であった故であろう。

碑は、氏子の地内を表示するために、西大鐘の氏子たちが建てたもので、左側面に彫られた「是ヨリ東八町二十八間」が神社までの距離を示している。

西大鐘氏子は、太神社(大正2年(1913)、西大鐘の一目連神社及び山の神が合祀されている)が石部神社に合祀された大正5年以後は、同社の氏子となった。

ところが昭和22年(1947) 5月1日、現在地に分祀・復元するに際し、西大鐘氏子は石部神社の氏子にとどまり、千有余年にわたる太神社の氏子から外れることとなった。

この碑は現在、県道員弁四日市線に面する町有地(森克彦氏宅西)に建つが、もともと一目連神社の参道入り口(森光男氏宅西)にあったものを、平成元年(1989)道路拡幅工事に伴って、ここに移築したものである。

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