太夫の墓(西大鐘町)

花崗岩で板碑状に作られた高さ1.52m、幅約50㎝余、厚さ約24㎝のこの碑は、頂部が尖頭形で、正面中央に五輪塔が線刻してある。

五輪塔は宇宙万物を生成する五大を表す塔婆で、上から宝珠(空を表す)・円形(風を表す)・三角形(火を表す)、円形(水を表す)、方形(地を表す)から成っている。

そして方形(地輪)の中には、中央に「為度會定時・居士」と刻まれ、右側に年紀らしいものが刻まれているが朽ちて定かではなく、言い伝えによれば享和年間(1801~1804)といい、左側には「一〇月一五日」と彫られている。

西大鐘近在は中世より下野三郷とよばれ、岩田御園(霜野御厨)という神宮領があったが、村人がこの碑を「太夫の墓」とよんでいるところから、度會(会)定時は神宮に奉仕する外宮の神人・御師職にあった人と思われる。

神宮の御師は諸国の信者と師檀関係を結び、御祓や伊勢暦を配付して初穂料を受けて回った。

「伊勢の御師さて銭の無い盛に来」と川柳にあるように、歳の暮れになると御師自身、またはその手代が神宮の御札と伊勢白粉などの土産物を携え、檀家の村々や大名家を訪問した。

地元の言い伝えによれば、伊勢の太夫さんが西大鐘の里に御札を持って御饌米を集めに来たが、どう魔がさしたか、御饌米を銭に替えて近在の衆と博打をして無一文になってしまった。

このままでは神宮に帰ることができないと、稲場(因幡)の柳の木の下で切腹して果てた。

この碑は不本意な死を遂げた度会定時のために、西大鐘の村人が秋の祭礼の日を選び、故実に基づいて礼を尽くして建立した供養塔である。

当初、稲場の柳の木の下にあったものをそれから2、30年後、庄屋(門脇氏)が多度大社から雨乞いの神「一
目連神社」を分祀したとき、その境内の一隅に当たる現在地に移築したものという。

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