札場(札場町)

札場は、四日市から菰野・員弁への交通の要所であり、江戸時代には、禁制・法令などを一般人民に周知させるため、街頭高く高札を掲示した場所であった。

江戸時代、新たに開発された水田を新田といい、多くの新田は開発されると検地によって石高の検査を受請地となった。

比較的大規模なものは一村として独立して新田村とよばれ、小規模なものは従来の古村の村高に編入され高請新田とよばれていた。

ここ札場新田は、北山村の利八という人が北部の平坦な低地から開発を始めたが、朝明川と古城川の合流地のため、水はけが悪く苦労したと伝えられる。

集落もはじめ段丘下にあったが、洪水などに遭い、台地上に移り、次第に集落ができていった。

寛文七年(1667)年貢割付状(下田文書)に「札場新田、高百四十一石」と記され、寛文期(1661~73)には新田が成立していた。

札場新田という村名は、江戸時代から明治22年(1889)までの呼称であり、昭和29年(1954) 7月1日、四日市市へ合併するまでは、三重郡下野村大字札場新田であった。

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