五の坪(北山町)

西朝明中学校の辺りに「五の坪」と呼ばれる地名がある。

これは奈良時代に行われた地割の制度、条里制によって表示された土地の名残である。

条里制は土地の公有を原則とした古代の律令国家の土地制度の基本である、班田収授法にとって必要な前提であった。

その起源は5世紀ごろから大和朝廷の直轄の農業経営地である屯倉などで行われていたが、大化の改新以後、班田収授法の実施のために発達し、7世紀の後半、国家の権力が強大になってから整備されたといわれる。

その地割りの方法は、おおむね郡ごとに土地を東西、南北に六町(約633m)間隔で区切り、東西を一里・二里と、南北を一条・二条と表示する。そして、六町四方を里というが、これも一町四方に区分して合計36の坪に分ける。

こうして何国何郡何条何里何坪と呼ぶことによって、地点の指示を明確にし、かつ耕地の形を整えてその面積を一定にしようとする土地の区画整理の制度である。

条里制の遺構は、奥羽地方を除く、全国各地の平野部や盆地にその跡を残し、四日市市についても朝明川をはじめ、伊勢湾に注ぐ各河川流域の平野部にその遺構がある。

さて、朝明川左岸の条里制の土地割りは、ここ西大鐘・大鐘間から下流の千代田、南に八の坪の地名を残す広永にかけて断続的にその遺構が認められる。

さらにこの地の条里制の施工に関して、当時、この地域の開発を推進したであろう広古墳群に埋葬された豪族との関連があるといわれている。

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