経塚と大檜(北山町)経塚公園内

北山町の経塚について、『勢陽五鈴遺響』は「今往々石経ヲ掘出ス古刹ノ址ナルヘシ其所伝未詳字模様古ニシテ今時ノ書体二非ス奇トスへシ(いま、時々石に書かれた経文を掘り出す。

古い寺の跡であろう。

寺について詳しいことは分からないが、石経の字体は古い形で、今どきの書体ではない。

不思議なことだ)」と記している。

経塚とは書写した経文を陶製や青銅製の経筒に入れ、他の副埋品とともに、地下に埋め、その上に塚を築いたもので、平安時代に始まり、同時代の末期に最も多く築かれ、次いで室町時代に盛んにつくられた。

その目的は教典の保存のために築くもの、あるいは現世での安楽と死後の冥福を願うためにつくられたものである。

この経塚については、戦国時代に西徳寺が織田信長の兵火をおそれ、その時に寺僧が教典を焼失から守るため、ここに大般若経を石に刻んで(石経)埋め、その目印として檜を植えたものとも伝える。

檜は樹齢数百年を数え、根元からは8本の幹が伸びその幹回り約3.6m、高さ約20mの巨木である。

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