大賀賢励寿碑(北山町)経塚公園内

明治の初め、全国から門弟が集まった私塾「半学舎」を開いた教育家、大賀賢励(号は旭川)の寿碑が経塚公園にある。

碑の高さは5.4m、幅2.5m、石は仙台産の砂岩、題額は当時の漢学者として有名な小野湖山が書き、碑文は賢励が自撰したものを市川塔南が書写したものである。

大賀賢励は文政2年(1819)、当時の東大鐘村(大鐘町)浄圓(円)寺の長男として生まれた。

少年の頃から儒学、仏教を学び、25歳で九州豊後国(現在の大分県日田市)の儒者、広瀬淡窓の家塾「咸宜園」に入門し、弘化3年(1846)に3年半の学業を終え帰郷した。

浄圓寺に帰った賢励は、寺務と共に郷里の子弟の教育にあたった。

その後、再度にわたる京都への留学、官命による東京勤務に携わりながら、門人の教育に当たっていた。

そして、慶応元年(1865)47歳のときに弟、賢海に寺を譲って、青年の教育に専念した。

明治2年(1869)、武蔵国忍藩(埼玉県行田市)より大矢知陣屋の藩士の師範を依頼され、廃藩後も陣屋内に開設された興譲学校の教頭として、さらに、乞われて竹永村や久米村などにも出張して青年の教育に力を尽くした。

明治10年(1877)59歳のとき、官許を得て、「教えることは半ば学ぶことである」とする賢励の教育者としての信念を表す私塾「半学舎」を設立した。

ここに「咸宜園」の流れを汲む教育を展開し、詩文を重視して、和漢学に仏教思想も加えて子弟の人格形
成に努めた。

半学舎の門人は、北は出羽から、南は薩摩に至る全国23カ国、その数は千数百人に及び、幾多の人材を輩出した。

寿碑は賢励が80歳をこえ、なお壮健であることを喜んだ門弟たちが建立を計画し、辞退する賢励を説き、懇願を重ね、ついに許しを得てここに建てたものである。

賢励は碑が建てられて後8年余、明治39年(1906) 1月、病を得て永眠した。享年88歳であった。

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