2月9日【日】朝明町にて放水訓練を実施。火災を想定し、消火栓【今回は岩田板金さん倉庫の池】から水を上げ、指揮者の指示をトランシーバーにて飛ばして100m先の火点までホースを延長し放水しました。 火災が多く発生しやすいこの時期、日々の訓練が消防団として欠かす事はできません。皆さまも火の元には十分ご注意下さい。 また訓練中...
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今日は下野地区市民センターにて 下野地区社会福祉協議会主催による ”第28回 下野地区福祉のつどい”が開催されました。 その中で 毎年、下野各地区の中より4町により ”ふれあい活動”実施報告が行われます。 本年度は山城町の担当となり 藤谷副会長が昨年10月に行われた ”山城町ふれあい祭り”の内容を報告されました。 ...
令和2年2月2日 下野地区福祉のつどいを開催しました。 「山城町」「大鐘町」「あさけが丘一丁目」「八千代台三丁目」 今年度のふれあい活動の様子を発表がありました。 その後、福祉講演会として 宮﨑酒造会長 宮﨑由至様のお話を聞かせていだきました。...
「半学舎」とは、「教えることの半分は、自ら学ぶことである」という大賀賢励(1819~1906)の教育者としての信念に基づき、明治10年(1877)に官許を得て、東大鐘村(大鐘町)浄圓(円)寺境内に開設された私塾である。 賢励は、弘化3年(1846)から漢学を中心に郷里の子弟の教育にあたっていたが、その学識・思想・人徳を...
広古墳群は、この地方では、他に見られない方墳を主とする特異なもので、歴史上極めて重要であるといわれている。 しかしながら、これまでに発掘調査が行われたことがなく、埋葬者、築造年代などは明らかではない。 広古墳群は、A支群とB支群とがある。A支群は、この地域ではもっとも南に張り出した台地先端頂部の標高約38m、平地との比...
「鐘撞」という字名は、延喜式内社太神社の別当寺であった天台宗西徳寺の鐘撞堂が建っていたことに由来すると伝えられている。 また一説には、その釣鐘が非常に大きかったため「大鐘」という地名になったともいわれている。 字鐘撞の地で耕作を営む農家では、ずいぶん前から、たびたび古い陶器片を見かけていたようである。 昭和59年(19...
大鏡山西徳寺は、平安時代初期(9~10世紀)に建立され、東大鐘村(大鐘町)から西大鐘村(西大鐘町)にかけて、七堂伽藍を擁していた天台宗の大刹(大きなお寺)で、太神社の別当寺(神仏習合思想に基づき神社とともに置かれた寺)であったと伝えられている。 延喜式内社の太神社とともに西徳寺があったということは、当時この地は北勢地方...
大鐘町字大坪の田地に大きい石碑があり、近寄ると東向に「延喜式内太神社舊蹟」と太く深く力強く刻み込まれている。 この場所は碑の裏側に「太神社ハ内務大臣ノ主旨ヲ基二大正五年(1916)一月二十七日三重縣知事ノ許可ヲ得テ同年二月二十五日石部神社エ合併ス」とあるように、かつて太神社が鎮座していた社地である。 太神社の祭神は綏靖...
朝明川中流左岸の段丘下位面で、西大鐘の集落を含む東側一帯に広がる。標高25~27mほどで、水田・畑地・宅地・墓地となっている。 北側台地斜面には北ノ山古窯跡がある。 遺物は東西350m、南北200mほどに広がり密度は高い。中野山・北山A~C・鐘撞遺跡と共に、『和名類聚 抄』に記載されている朝明郡大金郷を構成する集落の1...
江戸時代、村の政治は代官の指揮で庄屋が行っていた。庄屋の補佐役として組頭・百姓代が置かれ、これを村方3役と呼んでいた。組頭は農家5軒(5人組)をまとめ、百姓代は村民代表で庄屋・組頭の目付役として、年貢の割当などに立ち会う役目を持っていた。 また庄屋の補佐役には、その他に肝煎も置かれた。 庄屋には、郷ごとに大庄屋が置かれ...
北ノ山古窯跡は、西大鐘字「北ノ山」の元大庄屋伊藤弥左衛門の屋敷(伊藤裕氏宅)に接する裏山斜面にあって、古墳時代の後期に須恵器を焼いた古窯址とされる。 その昔、土採りをしていた百姓が発見したものといわれている。 窯は「あながま」といわれ「のぼりがま」のはしりである。表面は赤茶けていて、焼成されたと思われる固い土でできてい...
四日市市下野地区について
下野地区は四日市市の北西部に位置し、北は東員町、桑名市に隣接しています。
下野地区は大きく分けてその北部にあるまち(北山町、西大鐘町、大鐘町、朝明町)と川の南部にあるまち(山城町、札場町)、その中に立地している住宅団地(あさけが丘団地、八千代団地)があります。
下野地区は大きく分けてその北部にあるまち(北山町、西大鐘町、大鐘町、朝明町)と川の南部にあるまち(山城町、札場町)、その中に立地している住宅団地(あさけが丘団地、八千代団地)があります。